雨上がりの山道をゆっくりと降りていくと、霧の中から、幾重にも重なった緑の水田が現れます。平地が少なく、山と谷の組み合わせで成り立つこの地では、耕地として拓きやすい土地は山間か谷間の傾斜地でした。山の斜面を空へと駆け上がる緑の階段。その見事な景観は、全国から多くの人々を惹きつけてやみません。

「耕して天に至る」と形容されるこの景観も、一朝一夕にできたものではなく、何代にもわたる努力の積み重ねにより創り上げられたものです。平地に比べて耕地面積が狭く、大型の機械が入らない棚田は、作業をするにも人手は平地の二倍以上、収穫量は数割減と言われています。そのため、いつの時代も、今ある土地でいかに収量を増やし、おいしい米を作るかという試みが重ねられてきました。それぞれの時代において、新しい水利や新しい農具を使う技術が導入され、多くの努力の末に、棚田は農の「恵み」として育っています。今、目の前にある美しい景観は、代々受け継がれた土地への愛着が結実したものなのです。

この地一帯に降る雪は厳しい暮らしを余儀なくさせる一方で、春には清冽な水となって山肌を流れ、土の栄養分をたっぷりと含みながら、耕地を豊かに潤してゆきます。ある農家は言います。「この土地のきれいな水と栄養分を含んだ土壌がおいしさを育てます。しかし、自然ばかりに頼らず、毎年土壌を改良し続けることも大切。地力のある田んぼの稲は丈夫で倒れにくく、良い米が育ちますから」。この辺のお米の味わいは、雪国の気候風土から生まれ、人々の手によってはぐくまれたおいしさなのです。

画像は、越後奥寂庵から車で20分のところにある星峠です。ここは、棚田、雲海、朝日が見える素晴らしい場所です。直江兼継を画いたNHK大河ドラマ「天地人」の冒頭のテロップにも登場していました。
松之山温泉には、今から約700年前、南北朝時代に一羽の鷹が舞い降り、傷ついた羽を癒しているのをきこりが見つけたことから発見されたという伝説があります。古くから湯治の地として知られ、その薬効の高さは草津・有馬と並ぶ日本三大薬湯の一つに数えられています。

松之山温泉の泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉で、ほう酸の含有量が日本一多い、90度以上の高温で自噴する天然温泉です。戦事中、温泉から塩を採ったというほど塩分が強いために、ナトリウム成分が皮膚に付着して発汗作用を抑え、身体は芯から温まります。ですから冬でも湯冷めはしませんし、私たちのエネルギー・フィールド(オーラ)を浄化してくれます。
日本の自然100選のなかで、白神山地のブナ原生林とともに選ばれた天水越のブナ原生林は、標高が高く、世界有数の豪雪地帯であるために、冬は積雪5メートル以上となり前人未到の地となります。そのため原生林がそのまま残り、ブナは幹が太くて逞しいのが特徴です。

天水越にある大厳寺高原には、ブナの森を歩く素晴らしい散策路があります。
樹齢約80年ほどのブナが一面に生い茂り、すらりと天に向かってまっすぐ伸びる姿が美しいことから、美人林と名付けられました。昭和初期、木炭にするために木が伐採されて裸山になりましたが、その後ブナの若葉が一斉に生え、長い年月をかけて間引きや間伐を行い、現在のブナ林になりました。

冬季は、美人林の入り口にある「森の学校 キョロロ」で、スノーシューが借りられますので、雪に覆われた美人林をスノーシューで散策することができます。
十日町は「縄文芸術の里」と言われるだけあって、博物館には笹山遺跡出土品の特設展示室があり、火焔型・王冠型土器など国宝57点をはじめ、多数の出土品が展示してあります。常設展示は、十日町地方の特性を活かし、「雪」「織物」「信濃川」にコーナーごとに分けられています。

「雪」のコーナーでは、雪国の民具、十日町の積雪期用具等、人々の知恵や技が偲ばれます。「織物」のコーナーでは、十日町織物の源流として注目されている古代のアンギン、白越、白布ともいわれた高級織物の越後布、越後縮等、越後縮の紡織用具及び関連資料約2,100点が展示されており、十日町の織物の歴史を一堂にみることができます。なお、名誉館長は哲学者の梅原猛氏です。
築150年以上の茅葺き古民家が、田圃を囲むように点在している珍しい環状集落です。集落内40戸のうち、現在でも約半数が茅葺き屋根で、「日本の農村百景」にも選ばれています。日本の故郷を思い起こさせる懐かしい風景に出合えます。

このかやぶき集落には、「萩の家」「島の家」という宿泊施設があり、かやぶきの家に宿泊することもできます。
越後奥寂庵がある上越市大島区の、鼻毛峠近くにある池です。名前の由来は、前を行く馬に鼻を蹴られるほどの急な坂道だったことから鼻蹴峠と呼ばれ、それがいつの間にか鼻毛峠と呼ばれるようになりました。そのために、この池も「鼻毛の池」と呼ばれています。

峠にあるために湖面が空に近く、素晴らしい場所です。観光で訪れる人は少なく、静かに佇むことができます。
長野県との県境にある大島区菖蒲は、棚田の景色やホタルがたくさん出るほど恵まれた里山です。菖蒲集落にある飯田邸は、築300年の重厚な茅葺き屋根の古民家で、老朽化のために修復されましたが、懐かしい昔の姿は健在です。

映画のロケ地として2作品に使われ、「ふみ子の海」では、瞽女(ごぜ)宿の宴会シーンに使用されました。普段は、地域の憩いの場として、落語会やコンサートが行われています。

毎年2月に行われる「雪ほたるロード」のイベントでは、飯田邸はライトアップされ、飯田邸の敷地には約3,500本のろうそくが立ち並び、幻想的な空間になります。
歴史と自然が織りなす、神聖で静寂な空間です。上越市指定文化財の一つになっている板山不動尊は、昔から近郷近在の人々の信仰も厚く、参詣者が絶えません。間口30メートル、奥行き13メートル、高さ平均1,8メートルの半月形水成洞窟のなかに不動尊がまつられ、百数十体からの石仏が安置されています。 洞窟の右手には不動滝があります。

修験者が住みついて修行をした場所であるとも言われ、清冽な水が流れ落ちるさまは、神聖な雰囲気を醸し出しています。
「ほたるの里」として知られる大島区では、夏にはホタルの光を目にすることができます。そんなほたるの里に一夜限りで現れる冬の「雪ほたる」。大島区内の沿道約20kmの雪壁と雪原に2万本のキャンドルが灯り、やわらかな明かりに包まれた空間を演出します。

映画「ふみ子の海」のロケ地となった飯田邸のライトアップ(菖蒲地区)、雪原に舞う雪ほたる(大島地区)、巨大かまくら(保倉地区)、ナイヤガラ花火(旭地区)などの楽しいイベントが行われます。各会場に設けられた茶屋では、おかあちゃんたちの手作りのあたたかい食べ物を味わうことができます。
雪国の冬を満喫することができる「安塚スノーフェスティバル・キャンドルロード」。会場の安塚区では、さまざまな雪像たちが立ち並びます。夜になると6万本のキャンドルが区内の沿道をやわらかな光で照らしだし、幻想的でロマンティックな空間を生みだします。

お休み処が、安塚区内に十数箇所設置され、豚汁などでからだを温めることができます。
この大杉は、当地方の総鎮守白山神社のご神木として、土地の人々が古くから大切に保護してきたもので、樹齢1000年以上、目通り10.6メートル、木の高さ約30メートルで、枝張りは、東方へ約14メートル、西方約13メートル、南方約8メートル、北方約12メートルに達しています。

本樹は天然記念物であり、新潟県内ではもちろん、全国でも有数の大樹です。
豪雪地帯の松之山は「隠れキリシタンの里」でもあります。豊臣秀吉は、キリスト教が広まることによって仏教との激突が起き、人びとの心に動揺が生じることを恐れ、キリスト教を弾圧しました。そのためにキリシタンは、山奥に逃げ、人目を忍んで信仰を持ち続けました。厳しいキリスト教の弾圧のもと、キリシタンは、仏像にマリアさまを抱かせ、あたかも仏教徒であるかのように見せかけて、マリアさまに祈りを捧げたのです。

このような悲惨な歴史を持つ「マリア観音」や「マリア地蔵」が、松之山には数多く残っています。特に「マリア観音」は、日本で三体しかない貴重なものです。
松之山温泉から坂を登って15分ほど歩いた所に上湯集落があります。上湯は、いまだ上水道を引いておらず、自然の地下水を飲料水とする水のおいしい集落です。この上湯に、2000年の「大地の芸術祭」で、アーティストのマリーナ・アブラモヴィッチさんが、築100年以上の古民家に手を入れて完成させた「夢の家」があります。

「夢の家」は、あわただしい現代生活の中で、「自分自身と向き合うために、夢を見てほしい」との願いから生まれた宿泊体験施設です。宿泊者はマリーナさんがデザインした特製の服を着て眠り、見た夢を「夢の本」に綴り、宿泊者によって書き継がれた夢が作品の一部になるという面白い企画を行なっています。
浄土真宗の開祖である親鸞上人は、35歳の時に京都から直江津に流罪になりました。そして7年間、越後に住み、霊性を深めていったのです。直江津には親鸞上人のゆかりの場所が数多く残っています。親鸞上人を乗せた舟が着いた居多ケ浜、 流罪地で最初に訪れた居多神社、親鸞上人に住まいを提供した五智国分寺と竹之内草庵、実際に草庵があった場所に建てられた本願寺国府別院、親鸞上人の頭頂骨や遺品が保存されている浄興寺などがあります。

そして親鸞上人の妻となり、流罪となった親鸞上人を支えた恵信尼の公廟所、及び「えしんの里記念館」が板倉区にあります。
600年以上前の南北朝時代に築かれた春日山城は、自然の地形を生かした典型的な山城で、戦国武将上杉謙信公の居城として有名です。謙信公の銅像前から頂上の本丸跡まで遊歩道があり、本丸跡からは日本海から頸城平野まで見渡すことができます。

謙信公が少年期を過ごしたのが林泉寺で、名僧天室光育の教えを受け、この寺での教えが謙信の生き方を定めました。「義」の教えは、後に直江兼続にとって生涯の支えとなります。
曹洞宗の僧侶、良寛さまは無欲で生涯寺を持つことはなく、「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだと言います。その良寛さまのゆかりの地が、寺泊周辺にあります。燕には「国上寺」「五合庵」「乙子神社草庵」「夕ぐれの丘」「分水良寛史料館」、出雲崎には「良寛堂」「良寛記念館」「光照寺」などがあります。
日蓮聖人は「立正安国論」が鎌倉幕府の怒りに触れ、文永8年(1271)佐渡に配流になりました。塚原の三昧堂(根本寺)で「開目抄」を著わして自らの立場を明らかにし、一谷入道邸(妙照寺)に移されてからは法華経思想を具体化した十界曼荼羅を図顕。「観心本尊抄」を著して日蓮の主義・思想を結実させました。この影には阿仏房・千日尼夫妻(妙宣寺)、国府入道、是日尼夫妻(世尊寺)の外護の力があったからといわれています。在島は2年5ヶ月。文永11年(1274)赦免されて鎌倉へ帰りました。着岸した松ヶ崎・本行寺から離島出船の渋手、真浦の霊跡までゆかりの由緒・遺跡・伝説が数多く残っています。
臨済宗の白隠禅師は、若い頃から全国を行脚し修行を重ねましたが、飯山にある正受庵で、オオカミとともに座禅をしたという正受老師のもとで真の悟りを得ました。 現在の正受庵の建物は、再建されたものですが、「白隠蹴落とし坂」の異名がある参道の石段から、その当時を偲ぶことができます。この坂は、初めて来庵した白隠禅師の 「こんな小庵の和尚ごとき」という高慢な心底を見抜いた正受老人が、「この穴倉禅坊め」とけり落としたと言われる坂です。

また、映画「阿弥陀堂だより」では、主人公の恩師、幸田重長(田村高廣)と妻ヨネ(香川京子)の居宅に、ロケ地として使われました。
糸魚川には、縄文土器や石器、土偶が出土された長者ヶ原遺跡があり、ここで日本で初めて翡翠を加工する工房が見つかりました。縄文の竪穴式住居が復元され、「長者ヶ原考古館」では、縄文土器や石器が展示されています。
糸魚川は国内で唯一の翡翠の産地です。「橋立ヒスイ峡」では、大小約40個のヒスイの原石が点在していますし、「小滝ヒスイ峡」でも、小滝川の清流のなかに、ヒスイの原石を観ることができます。糸魚川で産出した5億年前のヒスイが展示されている「フォッサマグナミュージアム」や「青海自然史博物館」では、ヒスイの世界を知ることができます。親不知には、重量102トンもの世界一大きな天然記念物のヒスイ輝石が展示されている「翡翠ふるさと館」があります。
親不知とは、北アルプスの日本海側の端に当たるもので、糸魚川市の西端に位置し、15キロに渡って崖が連なった地帯のことを言います。断崖は、北アルプスの北端が日本海によって侵食されたために生まれたものです。昔、越後国と越中国の間を往来する旅人は、この断崖を海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきました。

また、親不知から南には北アルプスが延びていますが、親不知近辺は雷鳥の飛来地としても有名です。